『火垂るの墓』という映画がある。原作は野坂昭如さんの小説で、高畑勲さんが脚本と監督を務めた。
© 野坂昭如/新潮社, 1988
1988年に公開され、『となりのトトロ』と同時上映だった。ぼくは映画館で観てはいないのだけど、この2本を同時に観るというのはなかなかハードだと思う。情緒がおかしくなりそう。
さて、『火垂るの墓』だが、公開後も繰り返しテレビで放送されるので、観たことある方も多いのではないだろうか。『火垂るの墓』は戦時中の兵庫(神戸、西宮)が舞台で、戦争の状況はもちろん描かれており、「戦争の悲惨さを訴える反戦的作品」という文脈で語られることがある。もちろん、そういった見方は十分にできる映画だと思うし、観ていない方であってもそのような印象は持っているのではなかろうか。
ただ、当の高畑勲監督は、この作品を「反戦映画」だとは捉えていない。高畑さんは講演で以下のように話している。以下、公演記録である『君が戦争を欲しないならば』から引用する。すごいタイトルの公演だな。
戦争末期に日本は追い詰められ、戦中から戦後にかけてすでに挙げましたようなまことに悲惨な事態になりました。そういった悲惨な体験というものは、もちろんしっかりと語り継ぎ、記録し、伝承していくべきことです。『火垂るの墓』という映画も、戦争がもたらした惨禍と悲劇を描いています。しかし、そういった体験をいくら語ってみても、将来の戦争を防ぐためには大して役に立たないだろう、というのが私の考えです。 その理由は、端的に言いますと、戦争を始めたがる人も、こういう悲惨な状態になってもよいとは絶対に言いません。いやむしろ、必ず、「あんな悲惨なことにならないためにこそ、戦争をしなければならないのだ」とか、「軍備を補強しなければいけないのだ」と言います。
つまり、 戦争をなくしたいから戦争はしない。戦争をなくしたいから戦争をはじめる。 この一見対局にある理屈は両方成り立つのだ。
余談だが、『HUNTER×HUNTER』がお好きな方は30巻を読み直してほしい。登場人物のひとり、パームが同じ構造の理屈で状況を説明する場面がある。
さて、「戦争は悲惨だ」と訴えることは、「戦争をなくす」ということを目的にするのであれば、戦略的に必ずしも有効ではないという議論は、とても示唆に富んでいると思う。戦争は悲惨だと訴える人たちは「これだけ言ってもなぜわからんのだ」と憤るかもしれない。でも、そうではない。そんなことはわかっているのである。にも関わらず、「全然理解できていない」という前提で、より大きな声をあげようとしたり、より悲惨な状況を掲示しようとしたりすることは、間違えた方向に戦略を進めてしまう。続けていくうちにいくつか目的がすり替わり、声を上げること自体が目的となってしまうこともあるだろう。
強い憤りを感じた時、瞬発的に怒りとして爆発させることで、良い方向に行くのであれば、それはそれでありなのかもしれない。でも、そうではない場面は存在する。対峙する対象が大きければ大きいほどその傾向が強くなると思う。そのときは「戦略的に怒る」ということが有意義になる。では、「戦略的に怒る」とはどういうことなのだろうか。怒りを持ち続け、機が熟すのを待つのである。その場合、声を荒げたり強い言葉を使いたくなったとしても、感情的にならず、あえて黙って耐えることは、消極的な行動ではなくなる。その場面での最善手を選んだという、長期的にみれば積極的且つ立派な戦い方の一つだと思う。
蔑視的な発言や考え方、態度などに触れた時(ましてや自分が該当した場合は特に)、憤りを感じるのはとても自然なことだし、大事にしなければならないと思う。そのときに、どのように振る舞うのが良いだろうか。少なくとも、対象を口実に自分が蔑視的な態度で臨むことだけは避けたい。
ちなみに、『火垂るの墓』で描かれているものは何なのか。前述したとおり、もちろん戦争は一つのテーマだが、それだけではない。高畑さんの作品はコンセプトが多層化していて、わかりやすく括れないのだけど、それだけに深堀りする楽しさがある。そういうものは観た人が個々人で解釈すればいいことなのだが、ぼくとしては「煉獄」もテーマのひとつだと感じる。そして、それは高畑勲監督の遺作となった『かぐや姫の物語』も同様だった。戦争の悲惨さとはまた別の人間の業としての絶望的現実みたいなものがある。こんなものをテーマにして、しっかり描ききるとは狂気の沙汰以外の何物でもない。
出典と参考リンク
高畑勲監督『火垂るの墓』,2012,ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(Blu-ray)
高畑勲『君が戦争を欲しないならば』,岩波書店,2015,P.4-5.(岩波ブックレット)
冨樫義博『HUNTER×HUNTER 30』,集英社,2012.(ジャンプコミックス)